みんなのなやみ

僕は、知らない街や場所に行くと、そこに標語がどれくらいあるかをまず見るのね。で、それが多いところはたいていたいしたところじゃない。
言葉というのは宅急便みたいなものだから、送り主と届け先がはっきりしていないとまるで伝わらない。誰が、誰に向かって発したものか。それがとても重要になります。標語はとても正しくて綺麗な言葉なんだけど、送り主も届け先もまるでわからない。ただの風景になってしまうのに、立てた人はそれで満足しちゃうんだよね。

今日の講演会でいちばん気に入ったところ(原文ママではありませんが)。「みんな」って呼びかけることの無意味さとか、標語みたいな言葉ばかり巧くなっても、正しくても伝わらない言葉に何の意味もないとか、「みんなとなかよくしなければならないと思わないように」とか。生徒はみたことないくらい真剣に話を聞いてた。

自分が一生懸命やればいいのがこども。家族でも恋人でも、誰かのために一生懸命にやれるのが大人、やれなくても責任を持たなくてはいけないのが大人じゃないかな。

大人とこどもの違いはなんですか、という問いのこたえ。これも冴えていたなあ。そうするとわたくしはまだまだこどもです。

なんていうか、ほんとうにありふれたおとうさんで夫で43才のおじさんだなあ、と思った。高1の娘は全然話を聞いてくれないので本にして出したんだけど、それにお金払ってもらってごめんね、とか言ってるし。ただ、物事の判断の基準が自分の中にしっかりあって、人の気持ちの動き、特に切なさにとても敏感で、それを言葉にする能力に長けているのだなあ。まあ、それこそが作家の資質なのだろうけど。

と、重松清さんをお迎えした今日の学園でありました。学内ではまだしばらく重松ブームが続くだろうな。