中沢新一 at 芸術人類学研究所 青山分校!第7講
たっぷり二時間、いっぱい笑っていっぱい唸りました。知らないことをたくさん知って、身近過ぎて見もしないものを新鮮な目で見直すのはどうしてこんなにも楽しいのか。またちょっと世界の解像度があがりました。中沢センセイ&ほぼ日よ今日もありがとう!
行く前に寄るかな、と思っていたエッシャー展はエスカレータホールに溢れ返るほどの人出にて断念。宮益坂をてくてく上って、ABCで大散財をしてから東京糸井重里事務所へ。明るいビル時代は毎日ビルの前を通って通学してたんだよなあ、と違う場所のことを懐かしく思い出す。
今日のテーマは「お日柄もいいので、三位一体モデルで考えるお金の話」です。思うがままメモをしていたらレポート用紙10枚にもなっちまった。本論からヨタ話までどれもこれも好奇心をくすぐりまくりましたよ。メモを補いつつ自分の感想もいろいろと混ざってるので正確さはないけど、エッセンスみたいなものが伝われば。
60人ばかりのなかでもきちんとひとの目を見て話す方だったので、いちばん前の席でほんと良かった。ものすごいライヴ感を持って講義に望めましたよ。目が合った瞬間(たぶんね)に「東日本はシャケです!」って力強くおっしゃるのに胸キュン(なんだそれ)。ああ、また行きたいなあ。
■さて、どうして「お日柄もよく」かというと…
- 年末は、お金の持つ古代的な力をとても良く感じることが出来るシーズンなので。
□わきみちばなし(1) クリスマスのこと
- クリスマスは今でこそキリスト教と結びつけて行われる祝祭だけど、そもそもはキリスト教の成立以前からヨーロッパではこの時期に大規模な祭りを行っていた。冬至を中心とした、太陽のための祭り。
- サンタクロースはいまでこそ赤い服に髭もじゃだけど(これはデパートのイメージ商戦の結果)そもそもは結構な化け物。いい子にはプレゼントを、悪い子には叱咤を。ナマハゲにとても近い。→ルックスもそっくり! http://blog.excite.co.jp/dt/4269362/
- 今のハロウィンのようにこどもたちが顔を隠して家々を回ったりもした。
- プレゼントをもらうのはこども、女性、その他社会的弱者。弱者に対してプレゼントをすることによって、目には見えないもの(SPILIT)に贈り物をするお祭りだった。
- 救世軍なんかはまさにそういうもので。本来だったら24時間テレビはこの時期にやるといい。
■本筋に戻って…
- 普段は自分のお金と商品を交換する=自分のためにお金を使うんだけど、この時期は自分のお金を使って相手に贈り物をする。
- 日本では年末とお盆。お中元とお歳暮。夏至と冬至のころに、霊(先祖だけではなく、いろんな霊に)に対しておもてなしをするためにものを贈り合う。特に冬の贈り物は世界的にそういうイベントがある。
- バリ島なんかはちいさな霊に贈り物をする風習がまだいっぱい残ってる。
■お金は記号か否か?
- 目の前にお札が一枚。これは記号的なものなのかどうなのか。今の社会だと「記号です!」と割り切って、実体さえいらなくない?という方向に進みつつあるけど(クレジットカードとかね)、果たしてほんとうにそうだと思う?
- 記号というのは二元論で出来ている。すべてを二つに分類して(ひいては0と1に分解して)合理的に進めていこうとする考え方。(この辺ちょっとこないだの神田出張所とかぶる)
- しかし、貨幣には魅力や魔力がありはしないか?よろこびとか生命力とか、合理化できないものを含む場合には必ず「3の原理」でとらえる必要がある。
□「なまず絵」というものが江戸時代にはあった
- 特に「世直し鯰」と呼ばれる錦絵。http://library666.seesaa.net/article/11025896.html
- 元来は地震封じのまじないだったけど、世の安定+固定された身分制度のなかにあって、庶民は実は天災を楽しみにしていたフシもある。何も持たぬ自分たちはそんなにダメージはないけれど、大店が潰れたとなるとにわかに建築ラッシュ!世間もわいわいと活気づくからね、と。(とんでもないポジティブさ!)
- 資料として配布されたなまず絵には、ナマズといっしょに黄金を吐き出したりひりだしたりする町民が描かれているのだけど…。
■どうしてお金は排泄物と同じように描かれるのか?
- 生まれてすぐの子どもは自分と母親/自分とほかのもの の境界がとても曖昧。ライナスの毛布みたいな。
- 子どもは特に排泄物が好きだけど、それは「自分のからだと外の世界の間にあるもの」だから。自分の一部のようで、總でないもの。まじないが媒介とするのもそう。髪の毛とか爪とか。
- お金にも、それと同様の魔術性がある。(うわ、この辺ちょっと曖昧だわ)
□昔の人はどうしてお金を埋めるのか?(徳川埋蔵金!→ http://www.1101.com/treasure/)
- 銀行がなかったから、信頼できなかったから、というわけではもちろんなくて。
- 後産(胎盤=胞衣(えな)といっしょに埋めたりしていたらしい。
- 胞衣をつけたまま生まれる子どもは大成する、らしい。神の世界とのつながりを保ったまま生きていけるので。
- 大地に埋められたお金を通して、神さまの力とつながっていられるのではないか、という思考。たんなる経済力の問題ではなくて。
■「ふゆ」ということばは
- 「ふえる」ではないか、と折口信夫はいった(「知るを楽しむ」のテキストにはこんな風に→http://d.hatena.ne.jp/estrellita/20061129)
- 年末=冬に世界的にGIFT合戦が繰り広げられるのは、来るべき次の年に向けて増殖させるためではないか。
□ひるがえってカナダの原住民の話
- カナダ北西部の原住民には、神の姿を彫り込んだ仮面を他の集落と贈答しあう習慣がある。http://www.lanecc.edu/library/don/copper.htm
- 金属を象徴とする、山の女神の伝承は環太平洋域に広く存在する。日本で言うと山姥。あれも鉄を食べる。山は狩猟・採集民族にとっては富の源泉である。
■「贈り物をすると幸福になる」といわれるのはなぜか
- ひとは「貪欲なひと」と「気前のいいひと」の二種類しかいない。
- 気前のいいひとの最たるものは自然=神さま。なんでもくれる。
- 貪欲なひとというのは、すべてを抱え込んで外に出さない=ひたすらコミュニケーションを否定する。「しゃべるのももったいない」ってな落語の吝嗇家はまさにそう。
- コミュニケーションにはなんらかの物性が必要である。たとえ江原さんだって何色かのオーラを見てコミュニケートするわけで。言葉でも、ものでも、何かを媒介にする必要がある。
- ものをやり取りすると、目に見えないなにかも同時に動くのではないか。それは精霊と呼ばれたり、気とか魂とか活気とか。見えない力がやり取りされる。
- その「見えないもの」を移動させることにひたすら腐心をしていた、と。
- ちなみにお歳暮にハムはヨーロッパの風習が流れ込んだものだけど。日本では東日本がシャケ、西日本がブリ。明確に違うらしい。(たしかに!ブリもらうなんて考えたことがない)
■さて、仮面と神さまの物性について
- そもそも神さまはひとを超えた存在なので、物性を伴わないはずですが。
- イスラムではこの原理がとてもとてもラジカルに展開される。「アッラー」もそもそも神の名ではないしね。
- キリスト教は神様が肉体を持って表現されちゃう。一神教的には反則!
- 「一神教かどうか」ではなく、物性を持つか持たないか、なのかもしれない。
■日本における宗教はどうだっけ?
- 実はどっちも持っている。
- 神道の神さまに物性はないのだけど、時折仮面を付けて仮の姿を現す。そうするとしゃべるし、踊るし。こどもっぽい。
- 仏教が持ち込まれたときに、強烈なモノであるところの仏像とともに日本を席巻したわけで。(火の鳥大和編を思い出すわ)
■仮面ってなんだ?
- 五感ではとらえきれない神の世界と、ひとの世界をつなぐインタフェイスとして機能するもの。人の世/神を厳格に分けるのではなく、どちらにもつかない曖昧なものとして存在する。(インタフェイスの日本語訳は「界面」というのを思い出した。いい訳語だ)
- こどももインタフェイスとして機能しうる(7歳までは神の子、なんていうね)。だから、子どもとナマハゲは対面する。そもそも同じ性質を持つものだから。
■界面。
- インタフェイスという役割の基では、仮面と貨幣は同じものとして取り扱える。
- 仏教においてのインタフェイスは仏像であり、すべての矛盾を内包して成立しうる神話もそう。
- 禅宗はそういうのを嫌うので仏像が地味だったりする。密教は空海がインタフェイスの天才だったのですごい派手。
- こどもとかおたくが好むものは、どれもインタフェイス上のもの。ゲームとか。うまく位相をずらせばちびっこがみんなみうらじゅんに!
■インタフェイスと増殖の関係
- かつての自治体の首長はモミの貸し付け→インタフェイスである大地を使って増殖→取り立て(年貢)というシステムを利用して地域を治めていた。
- 日本の金貸しはお寺から始まったのだけど、それもまったく同様のプロセスでできている。仏像にはそもそも増殖のプロセスが組み込まれているので。神社は増殖に必要なインタフェイスを持たないので、そうはいかなかった。
- (この辺の話は原則が現実を作ってるかんじなので、ちょっと腑に落ちにくい)
- インタフェイスは曖昧さや矛盾を内包した存在なので、非常にいかがわしい。善悪の判断をするべきところではないので。
■と、ながながと話をしてきましたけど
- 貨幣というインタフェイスを持つことで、人々は幸せになるための仕組みを手に入れた。
- 一方で、アンバランスになるととても不幸なことが起きる。抽象的な世界=数に囚われてしまったり、物の世界=商品や物としてのお金に固執してしまったり。
- 貨幣には魔力がある。金→商品→金→商品…とメタモルフォシスを繰り返すなかにある心地よさ、幸福感。経済学的な視点では記号的な部分の外は一切考慮されていないけど、そういう楽しさがなければ、わざわざしちめんどくさいシステムを持続してるわけがないのでね。
- そういう目に見えない部分を加味しての、三位一体モデルによる資本論みたいなのを2008年はやるつもりです。(2007年は?)
てなかんじで。長いよ!後半になればなるほど自分のメモ力(めもりょく)が枯渇しているのが分かります。とほほ。とにかく「インタフェイス」という捉え方が新鮮だった。三つの円を描くのは、どうもどこになにを入れたもんかと悩んでしまうんだけど、界面におけるあいまいさ、みたいに考えるとわりとすっと通る。原義通りの「インタフェイス設計論」なんてやっていた甲斐があったかしらね。ああ、ホントにまた行きたい!年末ジャンボより当てたいです。