葬送

学園の名誉理事長のお通夜。わたくしどもが入ったタイミングで理事長職を退かれたので、時々姿を拝見するくらいのかただったのだけど。ながく一緒に働いていた先生が多いので(私立だからね)報せがあったときは、職員室中がしっとりとした空気に包まれていた。それでも手際よく手伝いの要員が定められ、授業は通常通り行われ、お通夜の今日も生徒はいつも通りに活動してる。なんだかせわしいなあ。

しかしこのあいだ「ボーナスが入ったらブラックフォーマルを買おう」と言っていたのに。今年はなんだかご不幸が続くねと話していたところで、web草想の保坂連載内田樹の研究室 で死にまつわるトピックを読む。切り口こそ違えどもそれぞれに感じるところは多い。死を悼む余裕もないような生活は、生者にも死者にもよいことはない。

とりあえずは、開けたままになっている電車の窓は閉めよう。知り合いや身内に不幸があったらもう一日余分に休もう。ペットが死んで悲しんでいる人がいたらそれを馬鹿にしないようにしよう。円滑であればいいとしか思っていない組織の流れを少し遅らせる心掛けが、「冷淡さの連鎖」に歯止めを掛けられるかもしれないのだから。

正しい喪の儀礼とは、「死者があたかもそこに臨在しているかのように生者たちがふるまう」ことなのである。手を伸ばせば触れることができるように、語りかければ言葉が届くかのようにふるまうことによって、はじめて死者は「触れることも言葉が届くこともない境位」に立ち去る。死者に向かって「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。
というふうに私たちは信じている。