クロノス再び

いつもより早く仕事場を出られたので、ちょっと遠くのショッピングセンタまで足を伸ばして日用品のお買い物。アイロン台、francfrancにあるものと迷って結局安い普通のモノにしたんだけど失敗だったかなあ。実家にあったヤツが一番気に入ってるんだけど。

晩ご飯は湯豆腐と肉じゃが。人参にしっかり火を通そうとしたら、じゃが芋がモロモロになってしまった。ちょっと失敗。京都で買った日本酒と箱根で買った酒盗でちびりちびりとやる。「賀茂鶴」ってすっかり地元のものだと思っていたら、実は広島のお酒で大笑い。でも美味しかった。

日本酒を空けつつ、クロノス世界のパラドックスについて再度検討する。一緒に行った氏にも原作を読んでもらったんだけど、このゴツゴツした文章の感じって、往年のSF華やかなりし時代の雰囲気なのね。すっかり懐かしく思ったよう。ワタクシは全然そこを通らなかったので、ちょっとびっくりしたんだけど。

(このあとは未見・未読の人にはまったくさっぱりであるだろうのでたたんでおきます。クロノスを観劇もしくは原作を読んだひとのご意見を求めますですよ)


ラストシーン、カエルのブローチが元に戻るということは来美子は吹原によって救われたということで、あの世界は来美子が生きている世界になったってこと。その一点に合わせて事実や記憶が改変されるのなら、科幻博物館すら存在の意味が変わってしまう(あるいは無くなってしまう?)のよね。館長がブローチの変化に気づいて驚くこともないはず。「それはもとからそうだった」んだから。

原作では館長と吹原はまったく関係のないような人物に描かれていたので、気づかなかったんだけど。館長の記憶にあるであろう伯母来美子の記憶はどうなるんだ、と思った時点でひっかかってしまった。「吹原が時間跳躍をした」という事実や記憶が残る、というだけならいいように思うけど…。銀河旋律あたりだと、この辺はとてもstrictなルールだったので、ちょっと気になる。

この矛盾が物語の価値を変えるわけではなくて、むしろこれがあるからこそあんなにも美しいラストシーンができるのだけど。鈴原樹里の物語 がああいう風になっているて考えると、ここんとこがちょっとひっかかるような気がするんだよね。うーむ。