キャッチャー・センチネル・雪かき

静かな夜のひとりごと。

洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。
人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。家事には「そういう感じ」がする。
とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。
けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。

「君は何か書く仕事をしているそうだな」と牧村拓【冒険作家】は言った。
「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。「穴を埋める為の文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき」

好きを貫くのもいい。好きを貫いている者を褒め讃えるのもいい。しかし好きを貫いている者であれば、自らの好きを貫くまえに、好きを貫いている誰かを褒める前に、好き嫌いを抜きにして仕事を片付けた方々をねぎらいたいものだ。

似ているようで、じつは似ていないテキストが三つ。

内田センセイの家事論はとても気に入っていて、たまった家事を片付けている時にいつも思い出す(氏のブログで検索しても出て来ないなあ、と思っていたら、リニューアル以前のエントリでインデックス化されてなかったせいだった)。このエントリには「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンのことばも引用されていて、誰にも感謝されなくても/意識されなくてもいい仕事をしたい、と。

同じことを「雪かき」という表現で書いてるのが村上春樹で(ま、内田センセイの脳裏にもこのテキストがあるのだろうけど)、高校生くらいに読んだとき「なんだそりゃ?」って思った記憶がある。仕事ってのは、どれも熱意と情熱に溢れて選ぶものだと思っていたからね。たぶん、ライ麦にも同じことを思ったろうな。今となってはよくわかる。

で、昨日はてブで見つけたエントリ。一瞬いい話だなと思ったのだけど、なんだか違和感もある気がしてわからなくなる。うーむ。自分も好きな事を貫いて行きたいと思ってるし、それを支えてくれる雪かき仕事に敬意を払うのはたしかにとても重要なのだし、「誰もが自分の仕事に誇りを持っている!」ていう幻想を持てるほどピュアじゃないのだけど。「ねぎらう」って言葉の視点の高さが好きじゃないのかなあ。よくわかんないけど、ひっかかる。言ってる事は悪くないと思うんだ。でも、この立ち位置を全面的に肯定する気にはなれない。

ま、自分もそんなに雪かき仕事は好きではないのだけど、どんな仕事にも「雪かき仕事」的な要素はあるんだよね。コピー機の用紙をそっと足しておくとか、イベントのあとに領収書の山にかこまれる、とか(笑)。できれば、自分は「ねぎらう」だけじゃなくて、そういう小さな雪かきはできるひとでありたい。どこまでが雪かき仕事なのか、というのも人によって違うのだろうし、それを楽しみながらできるんこともあるじゃない?